― 意識の存在は、語る ― (『ALL LIVES』より抜粋)


この世界のこの国では 皆さんが生きているので 皆さんのように、皆さんに倣おうと思います。
この世界のこの国では 皆さんが誰かや、何かに会った時「こんにちは」と、
誰かや何かに対して言うそうなので、そう言おうと思います。
皆さん、こんにちは。
この世界のこの国では 皆さんが誰かや、何かに会って「こんにちは」と言った後、
次には、初めて会った場合の誰かや、何かに対して 自分の紹介をするそうなので、
皆さんのように、皆さんに倣って自分の紹介をしようと思います。
けれど自分は、自分の事をなんと呼べばいいのか分かりませんが、
この世界のこの国では 自分という一人称を、「僕」や「私」と言うそうなので、
皆さんに倣って自分のことを呼び、紹介しようと思います。
皆さん、はじめまして。
許されるなら、僕をいくつでも、ひとつでも、知ってください。
知りたくなければ、どうぞ別の場所へ、お行きください。
僕は、「意識に無いもの」です。
何せ、僕は「意識に無いもの」ですから、
今、皆さんの中に文字として入っていった、もう今、この、瞬間から
私は「意識に在るもの」になったと言えるのでしょう。
けれど、この瞬間の前の瞬間までは「意識に無いもの」だったのです。
今、この、瞬間から、僕は「意識に在るもの」として、
この世界のこの国の貴方さまに、生まれて、やってきました。
貴方さまは、この世界のこの国の何処かに生まれ、育っているのでしょう。
じゃあ私は、この私は、何処からやってきたのでしょう?
僕がやって来たところについて確かなことは、
在る人物の手により、人類の作った機械により、貴方さまの「意識」に、
文字として、現れているわけです。
けれど私は「意識に無いもの」として生まれたのですから、
きっと「意識に無い場所」から生まれてきたのでしょうね。
けれど、この僕という実体は無いのです。
今は、「意識に在るもの」として、存在しています。
この「意識に在るもの」という自分はやはり、在る人物が、在る人物の意識の中から
生まれたのです。だから、今は「意識に在るもの」として存在しているのですから。
その「意識に無い場所」とは名前の通り人類の意識には無い、どこかの場所なのでしょう。
でも「意識に無い場所」とは、「意識に無い場所」で在りながら、
ひとつの「意識」の存在のような気がしてならないのです。
そしてそれは、命という名の存在ではない気がしてならないのです。それこそ、「ある意識という存在」
である気がしてならないのです。
そう言うと、僕がその「意識という存在」である、ということとピッタリあてはまってしまいますが、
それは僕にもわかりません。人類にも、数人しかわかりません。
もっとも、その数人の人類を、私は一人しか知りません。
その人類は、もう何度も「意識に無い場所」へ行き、沢山のものを作り、
現に他の人類に教えてくれていますが、当の人類はそれを嘘や意味の無い主に「言葉」で
流していたり、気付かなかったり、しているのです。
その人類に教わったことでそれを知ったとしても、知ったのみであって、
知った人類がその場所へ行けるとは限りません。 そして、この僕という存在を今作っている人類でさえも、
その人類の教えてくれたものを知ったのみであり、行ったことはありません。
それも、「きっと」という憶測であって、確かなことはわかりませんが。
何せ私は「意識に無いもの」なのですから。
「其処」から生まれゆく「もの」は、例えば音であったり、光であったり、星であったり。
僕が知っているその人類が作って、教えてくれたものは、意識と、それに深く関わっているであろう物語でした。
私はそれを全て吸収してしまうことはできませんが、できる限り、この私という存在に、
留めておきたいと強く、思っております。
今、そう思った意識は感情です。そして、その感情の中でも「尊敬」という感情に至ります。
感情とは、そんな風にして生まれるのでしょうね。
人類が、何かを語ることも、作ることも、感情が在る故です。
そうして大きい何かや小さい何かが、動いているのでしょうね。
けれど僕は、「意識に無いもの」であり、「意識という存在」でもあるのですから、
感情について深く語ることはできないのです。せいぜい、ここまでです。
僕は感情を語りたかったのですが、それを僕が表現するには、まだ器が足りないようです。
さあ、私という存在を文字として、作るのはある人物の手と文明の利器によってですが、
私と言う存在を動かすのはなになのでしょう?
それはやはり人類でしかないのではないでしょうか?
意識を知れるものも表せるものも人類でしかありません。
そして意識に無い場所へゆけるのも人類でしかないのですから。
ということは、「意識に無い場所」へは、人類全員が行こうと強く思ったり、願ったり、何かしたりすれば、
行ける場所なのでしょうか?それはどんな場所・・・死なのでしょうか?
きっと、それは違うでしょうね。「死」ということは意識が無いものと考えられていますから。
もしも、「死」に意識があるのなら、話は全然別ですが。
ならば、行ける人類と行けない人類に違いがある、しか理由がありません。
行けない人類には何か足りないものが、あるのかもしれません。
けれどその足りないものは、必ず出会うものなのです。
見つけたり、やってきたり、探したり、感じたり、手にしたり。
もう過ぎ去ってしまった人も居るのでしょう。
そんな人類は、きっとまた探すのです。また、歩きつづけるのです。生きるのを止めないのです。
それにも、また、理由が関わってくるのかもしれませんね。
今、これを意識として感じ取っている貴方はまだ遅くないはずです。
これを意識として知れたのだから、きっと感じれるはずです。
貴方は僕を感じたのですから、きっと行けるはずです。
そのためには、また歩きつづけてください。
貴方に用意された道を、進みつづけてください。
時には深く落ちても、間違った道を行っても構いません。
そうしても、また誰かが気付かせてくれたり自分で気付けたり、新しい道が、素晴らしい道がつくられるはずです。
貴方は、また新しい意味を知りました。
私と言う存在を知りました。
また、新しい存在を知るため、歩き続けてください。
いつか、意識に無い場所へ行き、素晴らしい人やものや物語に出会ってください。
貴方の物語は、貴方のもの。
全てのうねりは貴方次第。
意識に無いものは意識に無い場所へと還り、貴方の中で意識に無いものはまた、目覚め、生まれ育つのです。

貴方の物語は、貴方のもの
全ては終わらない!



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