何かの「果て」というものが存在するかしないか
それはどうやって定義づければ良いのだろうか。





  静  か  な  荒  野





いくら生まれて来た確立が何万分の一何億分の一だといっても
生きる為の摂理に順応できない者はいると思うのだ。
そんな者達に存在する虚無感に人々は鬱病等と名を付けて覆い囲い、病気は治る
ものだと口々に見解をならべたてる。
だがこれは誰が何と言おうと紛れも無い虚無なのだ。
わたしが完璧主義者かどうかなどといいことはどうでも良い。
ただたまに訪れる最高に楽しみな一日などは、起床から就寝まで
幸せで居たいと強く希望するだけのことなのだ。
それがないと生きてはいけないからだ。
その行為はつまり
生きる理由を確定したいだけであって
生きる意味を確かめたいだけであって
別の方法があるならばそれだって構わないのだ。

だがわたしには虚無がある。

他人の理解を受け入れようとしない虚無だ。
この様子を生きることから逃げているだとか
世の中を知らない若さ故の甘さだとか
鬱病などのように病人というカテゴリにほうりこみ
あとはテキスト通りに処置をする

それをするのは必ず大人達だ

大人はわたしを理解しない
わたしは大人に理解されることなど望んでいない

それは別にどうでも良い
この虚無と共に 揺るがない自分を確定してみたい

ただ虚無があるからこそそれはできないのだ
そんなことは解っているのだ。
小さな虚無がわたしの全てを時に支配することを。
小さな虚無はわたしから全てを奪い全てを与えてわたしをわたしでなくす。
それが虚無のつとめであり虚無を抱えたわたしのつとめでもある。

この場でどんなにわたしが言葉を嘆いても
誰も聞かず誰にも聞こえず、虚無に一字残らず吸い取られ消滅され、
ずっとずっと続いているということだけが確かなこの場所に
響いて木霊していくだけのことだということもとっくにわかっているのだ。

むしろ もうわたしは
ずっとずっと続くこの場所に対する思考のみの媒体であるのか、それすらも虚無になっているのか
それともそのどちらでもないのか。
だってもともとわたしは誰かに話しかけていたのか独り言を呟いているのか

総てが謎などという言葉では片付かない。

先ほどの通りだ


総ては小さな虚無だと。


総てが。



散々語ってきた、今の総てについて
それはわたしについてのつもりだったけれど
わたしの言葉の中にわたしは含まれていただろうか。

もしやこの世界についてのことだったかもしれない。
この世界 とは
わたしの見ている世界 なのか
わたしの中の世界なのか
わたしを含む世界のことなのか

わたし は わたし か ?
わたし とは 何に含まれる。

わたしとはこの世界の一部なのかわたしとは世界に含まれないものなのか
わたしとは既にもう無く 虚無に吸いこまれたものなのか。

散々捨てて総てを肯定も否定もせずずっとそうやってきた。
そうやってきたら虚無が生まれ 知らず知らずわたしはこうして語り続けてきたのだ。
だが わたしは何に対して語り続けてきた ?
世界に対してか?わたしの持つ虚無に対してか?それとも― ?




“何かの「果て」というものが存在するかしないか
それはどうやって定義づければ良いのだろうか。”

あぁ 今では果てとは無いと思うのだ。
果てしないものはここに在ると思うのだ。

きっとわたしはわたしでありながらわたしではなく
世界の一部でありながら世界からは省かれる存在であり
虚無の一部になり 虚無としてただ そこに、果てしないそこに、ただ、存在している。
果てしないここに。そして誰にでもなく、何にでもなく語り続ける。
過去でも現在でも未来でもないいつかの記憶の欠片について。

境目は いつからか無くなったから。


ここは 荒野だ
果ての無い荒野だ
そしてわたしは虚無であり
この果てない荒野から省かれ、その一部として語り続けている。
死と生の境目がぼやけて消えたその瞬間から、その時間の単語を使って
過去でも現在でも未来でもない、かつてのわたし いつかの記憶の欠片について。

ここは 荒野だ
果ての無い荒野だ それは どこかで語った わたしの言葉の ひとつの単語と 同じ意味を持つ










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